虎になる夢を見る

脳内と音楽の話

パステルの渦を回顧したりして 触れるは焦燥、黒くて深い。

ながいです。
 
このまえ、生まれて初めて文芸誌を買いました。
本を読むのがすきではあります。でも純文学と大衆文学の違いをなんとなくしか分からないしすきな人の本が出たら買う、あ~ハードカバーはちょっと悩むかも、とか、そのくらいの温度感でのすき、です。
ベッドの傍らには読まれないで詰まれている本が6冊もある。そういう人間。
 
友達未満の人間の書いた小説が新人賞というやつになりました。
インターネットスラム街で出会った、言葉が好きな人。インスタの投稿とかに添えられる言葉とか、やり取りの中のちょっとした言葉が素敵な人、小説を書いているのは知っていたけど新人賞をとりましたと言っていて、驚いてそれから嬉しくて会社のお昼休みに本屋さんまで足を延ばしました。
紙袋に入れてもらった本を小脇に抱えるの、わくわくして思わず顔がほころんじゃうね。さながらフランスパンを抱えるパリジェンヌの面持ちです、うれしいとスンって背筋が伸びて最高ですね。
 
感想はもらえればもらえるほど嬉しい、と絵や文章をかく友達が言うし感想を伝えようかな、と思ったんだけどどう頑張っても要領を得なくなりそうだし自分語りをしてしまいそうなのでここに書きます。ゴリゴリのネタバレです。なぜならこんな日記誰も読んでないからです。そして読み終わってまぁずいぶん経ってるので鮮度はない感情です。私は思考をまとめるまでに随分時間がかかっちゃう。そしてまとまってないのでクソ長いです。
エゴサしてたらばれちゃうけど。まぁ発売からもう少しで1か月くらいたつし大丈夫でしょう、という驕りです。すぐ油断するのは悪い癖ですね。
 
熊谷に住んでいる男子高校生4人の話。
映画を撮っている登場人物がいて、映画といっても演技をしている所じゃなくて日常をとって繋ぎ合わせて作ろうと思っていて、4人で喋ってたりする場面で、カメラは大体ずっと回っている。カメラは時として別の登場人物が持ち替えたりして。
というこの小説の視点は男子高校生4人で切り替わりつつ進む。切り替わる、なんて言葉が合わないくらいシームレスで不思議な読み口で、そこがすきでした。切り替わるというより、自然に動く、ズレる、みたいな。人間が喋ってるときの視点とか誰が発話するかって、文字にするとこうなのかなぁという感覚。こういう書き口の小説を読むのは初めてだったけど、不思議で心地いいリズムだなぁ、なんて。
 
なんというか、愛のある視点で人を見ていて、そこがすごくすてきだなぁって。実際友達(未満ではあるけど)なのでインスタとかをフォローしていて、ストーリーとかフィードを見ている上で、周りの人がすきなんだなぁとぼんやりと思っていたんですけど。身の回りの手の届く範囲の人の事をすごく大切にしている人間の書いた文章。個とか団体とかそういう話じゃなくて、周りの人をすごくよく見て大切にして思い出を切り取ってしまっているような感覚。私は熊谷のうだるような蒸し暑さを知らないから、想像でしかないけどそんな最悪の暑さ(わたしは暑いのが苦手過ぎて暑さを最悪の象徴としてみているところがある)のなかを過ぎる風みたいな文章。
 
いきます、自分語りに。
父親が自殺している登場人物がいます。
「俺にも自殺の機会は偏在している。そういった行為に開かれた血が流れている。その肉体で生きている。そう考えて暮らしてきた。」という節があって、分かるような気持ちになってしまった。というか前後の文章文脈ありきだからこの説だけだとアレなんですが‥。
父親が首を吊っている私はふとした時に首を吊るんじゃないかと思っているし、兄だって鬱病だったし、今、精神をとろとろ覆う希死だってなんかもうDNAに刻まれたものなんじゃないかなぁ、とか思ってしまう。私という人間の意志とか、性質とか以前になんかもう”そういうもの”を含んだ精神と体でできてしまってるみたいな感覚があって、やまぁ、自分の人生を生きなよという話なんですけど、なんというか、ね。
精神の脆弱性が遺伝するのか、精神が脆弱な人間と近く育ったらそういう性質を身に着けるのか、難しいことは何も知りませんが、自分の希死だって他人のせいにしていたら楽だからそうしているだけなのかもしれない。むずかしいね。
というか希死が薄く自分を覆っている事、あまりに日常すぎてこうじゃない人生の事を考えられないな そんな人本当にいるんですか?いや、いるんだろうけどね。全然。
 
どこか自己憐憫を抱える人物たちはなんやかんやそれを乗り越えるというか寛解するというか、まぁ、すごく雑に陳腐に言うとそうなるんですけど(これは本当に失礼なくらい陳腐なあらすじ説明です)、人物よりも筆者よりも年を取っているくせにいまだに私は自己憐憫に縋って、浸ってそこがぬるま湯だと信じて疑わないわけです。
アパートにいる猫に引っかかれたんだよね、と答える手の甲の切り傷も、しなくてもいい普通食嘔吐も、他人への執着も、自分をかわいそうに置いて何とかやって行ってるの、かなりバカみたいだという自覚はずっとあって可能なことなら辞めたいけどやめ方すら分かんないね、10年くらいこんな感じで生きてしまった。自己憐憫マジで最悪だしバカみたいだし大人になれないです、セルフネグレクトをやめたいと思う私と辞めろと怒鳴る私と辞められたらとっくに辞めてるでしょと鼻で笑う私が同居してる。
だからなんというかちゃんと青春の中で克服、とまではいかなくても寛解している登場人物は全員愛しくてきれいで、その上で本当に羨ましいな、と思いました。
 
私の好きな、桜庭一樹が小説のあとがきに「男の子の焦燥感はわたしとかのよりずっとずっと激しかった気がする。女の子のそれはもっと全然とらえどころがなくて、怒りとも、焦りとも、希望ともつかない、パステルカラーなホラーの時間にどっぷりいたような気がします。」という言葉とともに北村龍平の「俺は心の荒んだ人間でした。いつも怒りを抱えて、愛情に飢えていた。誰もいないと思ってたし、生きていても死んでてもどうでも良かった」という言葉を引用していました。
なんというかこの、北村龍平の言葉が少しだけ分かるような、パステルカラーの世界でぐるぐるしているだけの私が、十代の男の子の劇画調のホラーに少しふれられたような。劇画調でいて、なんだか柔らかさを含む文章がすきでした。
 
「コンビニの屋根よりも電線は高くにあった。電線の上と下はまるで水槽の内外のように入れ替わらない気がした。六月の終わりにしては冷えていて、それでいて重たい空気は夜に充満している。それを幾度となくぼくらの笑い声がさいた。」かなり・すき・文章。
 
凄く長くなっちゃった上にマジで全くまとまりのない文章ですが、とりあえずここまで。久しぶりに小説を読んだ、たのしかったな。