虎になる夢を見る

脳内と音楽の話

もう家に来ることのない人間の タオルが回る甘い匂いで

人との関わり方を肯定しか知らない。
友人に関しても、恋愛に関しても、趣味に関しても、です。肯定しか知らない人間だからアイドルオタクがピッタリだったのか、アイドルオタクだから肯定ばかりするようになったのか分からないけど、ずっとあるこの姿勢はここ4,5年でより顕著になった気がします。
この前お酒を飲みながらぐるぐる考えてたこと。

すきな人(広義)にはずっと幸せで、穏やかでいてほしくて、悲しいことや辛いことから遠いところで過ごしてほしくて、世の中優しいことばかりじゃないからそうも言ってられないけど、じゃあせめて私と一緒にいる時くらい穏やかでいてほしくて、だからだいたいのことは肯定するし甘やかしたいし、という感覚。
というかダラダラクソ長く書いたけどシンプルにすきな人は甘やかしたくない?という話です。当たり前に優しくしたいし甘やかしたいだろ。

推しメンがアイドルじゃなかったら愛を知らないまま死んでいたかもしれない、と思うくらい推しメンが私のすべてで、愛そのもので、そして、救いに似た存在です。
推しメンに度々、少しずつ、救われて掬われて5年も生きながらえて、そして来年の2月まで生きようと決意している私のなかで好きという感情と、救いとか崇拝のような感情が絡みつくのはかなり容易な仕組みな気がしちゃいます。鳥のヒナの刷り込みと同じで、私にとってすきという感情は救いの存在への感情だって思っちゃったし、時が経てば経つほど推しメンは私の感情のまんなかに巣食って(勝手に私がそこに置いただけなのにね)いって、救いと愛が離れることは無いんですね。

で、例えば私が人を好きになった時に思う感情、それは「救いになりたい」なんですよね。自分が誰かを救えるとはあんまり思ってないんですが、それはそうとしてすきな人の辛いこととか嫌なことを無くすことは出来なかったとして、でもそれを少しでも軽減できる存在になりたい、と思う。ここまではまぁだいたいの人間、好きな人には幸せでいてほしいと思うのでそこまで変な事じゃないんですが、さて、私は幸せになってしまったその人のことを変わらず好きでいられるのでしょうか、役立たずになった私はその人にとって必要なのでしょうか。
すきな人と桃源郷に向かいたい、という姿勢の人が世の中の大半なんじゃないかな、と思う反面私は地獄を共有したい、から、だめなんだろうね。

半年くらい仲が良くて?なんというか、お酒を飲みながらお互いの地獄を地獄だね〜と言い合ってた人間がいて、その人に最後に、私と一緒にいると全部それで大丈夫ってぬるま湯すぎて申し訳ないししんどいって言われたんですよね。相手が心根は激ストイック背水の陣で生きていたい人間だと言うことを差し引いても、なんか、水をあげすぎて花を枯らすタイプなんですね〜〜と鼻で笑うしかないわけです。大切な人だから嫌なこととか苦しいこととかから遠いところにいてほしかったんだけどその姿勢は相手にとって負担だったの、ウケますね。
じゃあ私ってどうしたら良かったんでしょうね、肯定以外の関わり方とか知らないのに。

例えばすきな人に死体を一緒に埋めてほしいと頼まれたら頑張って埋めたいし、ゴミ焼却場で焼いてきて灰は氷にして海に流したい、けどそれはどうやら正しいことではないらしいです。
難しいね、道徳の問題ではなく、生きる姿勢の話です。
実際あったらちゃんと自首を勧めます、きっと。

というか、最早、たぶん私は誰かを救った気になってる自分が好きなだけで、他人を肯定することで自分も肯定されたような気になるだけで、人に優しく出来ない自分が嫌いなだけで、結局誰のことも好きじゃなくて自分のことしかみてないんだろうな、といういつも通りのゴールに辿り着きました。自分のことしか好きじゃない自分のことが本当に嫌いで仕方がない。結局長々書いてもかんがえてもいつもと同じ結末、馬鹿みたいですね。読み損ですみません。

おやすみなさい。